スージークーパーを常に数百点取り揃えています。 あんてぃーく 遊民は、鎌倉市長谷にてお客様のご来店をお待ち申し上げます。
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スージークーパー

   
 

スージークーパーって何?
スージークーパーについてご興味のある方必見です!!

スージークーパーとは・・・
スージークーパー年表と日英関係史



 
 
 
スージークーパーとは・・・
 

スージークーパー(本名Susan Vera Cooper)は、西暦1920年代から1930年代のアールデコ期を中心に英国で一世を風靡した女性食器デザイナーであり、食器メーカーでもあります。
1902年10月29日、スージークーパーは父ジョンクーパーと母メアリーアンクーパーとの間に7番目の末っ子として生まれました。父は祖父の代から石油会社から農場、食料品や雑貨店まで幅広く経営し、地方裁判所の裁判官をするほどの地方の名士でした。
そのような比較的裕福な家庭で育ったスージーですが、第一次世界大戦による人手不足と病弱であった父の為、メイド2人と共に通っていた私学校から連れ戻されて家業を手伝わなくてはならなくなります。
本を読む事とお絵かきが大好きだったスージーにとって、この家業を手伝う事は大変苦痛だったようで、後にスージーは「ともかく家業の手伝いから逃げ出したかったのよ」っと言っています。そして、やはりその事の良き理解者は母のメアリーでした。
スージークーパー11歳の時、父ジョンが急逝します。享年53歳でした。15歳からスージーは母の勧めで家業を手伝いながら、生涯の恩人となる地元の美術教育長でもあるゴードンフォーサイスが学長を務めるバースレムアートスクールの夜間部へ通い始めます。
このゴードンフォーサイスは大変な教養人でした。この運命的な出会いがスージーの才能を開花させ、後の”スージークーパー”の運命を決定づける事になるのです。
17歳で奨学金を受けられるようになったスージーは夜間部から昼間部に転入し、19歳でゴードンフォーサイスの勧めもあり、アルバート・エドワード・グレイの率いるグレイ社に見習いペインター(陶器の絵付師)として入社する事になります。記念すべき”スージークーパー”の第一歩でした。


この時代、英国では歴史上初めて女性に選挙権が与えられ、女性が男性の社会に進出する風が吹いていました。そのような時代の中で英国の陶郷スタッフォードシャーのストークオントレント周辺では4人の女性アーティストが登場します。クラレスクリフ、スージークーパー、シャーロットリード、キースマリーです。

この中で何と言っても親分格はクラレスクリフでしょう。理由はいろいろあるとは思います。年長である事や、ハンドペイントしか制作しなかった事もあるでしょうが、 やはり最も活動的で下剋上であったことが、人気の秘密ではないでしょうか。シャーロットリードは自分の窯を持っていませんし、キースマリーはベース(花器)中心です。


それではスージークーパーはどうでしょうか?まず圧倒的な生産量。生涯に3800以上デザインしたと言われるデザイン数、スージークーパーの食器は、そのすべてがスージークーパー1人がデザインしたものです。又、世界中のマーケットに輸出して大成功を収めた手腕等はデザイナーと言うよりも、当時の世界では全く考えられもしなかった女性の大実業家でもあったのです。4人の中でも実業家と呼べるのはスージークーパーだけではないでしょうか。
では、何故スージークーパーは、このような大成功を収める事が出来たのでしょうか? 天賦の才能はもちろんですが、私はその秘密は彼女のハートにあると信じています。


話は少し横道に逸れますが、彼女の生まれた西暦1902年は、日英同盟が調印された年でもあります。そして彼女が成人する頃、1922年には日英同盟は失効しています。つまり彼女は成長期に日本の良いニュースばかりを聞いて育ったのです。 私はこの事はとても重要だと思うのです。


彼女の人生の多くは戦時に費やされています。今の英国海軍の教科書に出て来る日本海軍六号潜水艇の佐久間勉艦長の話は、1910年の潜水艇事故の話ですが、同様のドイツ艇の悲惨な事故と比較され、英国でも日本人のすばらしい逸話として、大々的に報道されています。このような報道は彼女にどのような影響を与えたのでしょうか?とても興味があります。


また、1900年フィラデルフィアで出版された新渡戸稲造の”BUSHIDO”は英語圏でベストセラーになり、一大センセーションを巻き起こしていました。
1908年には英国のロバート・ベーデン・パウエル卿が”Scouting for Boys”を出版、この本をバイブルとして世界に広がるのがボーイスカウト運動ですが、この本の中で書かれている思想の中心は日本の武士道精神に基づく子弟教育なのです。
このような日本のエッセンスを含んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながらスージーは成長していきました。


彼女は4人の中でも特に強く日本の影響を受けています。1930年代の彼女の作品に多く登場するグラデーションを使ったデザインは、古伊万里の吹墨からヒントを得ていますし、同じ1930年代のサークルズ(サークルズ&ドンティルズ)はやはり古伊万里の雨降柳から来ています。1939年のパネルスプレイ等は古伊万里の窓絵そのものです。私がスージークーパーと初めて出会った時に、これは英国(西洋骨董)の古伊万里だ!!と言ったのは、そのような事もあるのです。


さて、話は戻りますが、そのように成長期に日本の良い話を聞いて育った彼女の心(ハート)に宿った精神とは何でしょうか?私は労働に対する考え方と自己犠牲の精神ではないかと思います。それが、彼女を大きな成功へと導いた原因だと私は考えています。スージーのスの字も知らなかった私がスージーに初めて会った時に感じた“これはタダ者ではないな”と言う直感は、スージークーパーを知れば知る程に「何故、我々日本人の心をこれ程までに捉えて離さないのか?」 「何故、我々日本人の感性にここまで合うのだろうか?」「何故、我々日本の風景にここまで馴染んでしまうのか?」 なる程なーと腑に落ちてしまうのです。


スージークーパーは、1923年20歳の時から食器のデザインを始め、1930年に独立。50歳を過ぎると引退するのが当然の当時の英国で1966年63歳の時迄自分の会社を発展させました。1966年以降はウェッジウッド社のデザイナーとなり、1988年 85歳でマン島に移住してからもフラット等のデザインを続けています。正に生涯現役として、60数年に渡ってデザインの仕事を続けました。英国の20世紀を代表するデザイナーと言われています。


1987年、ビクトリア&アルバートミュージアムで大々的に開催されたスージークーパー展で、自分の孫のような世代の大勢のコレクター達が“スージークーパー”に熱狂する姿を見て答えたスージーの言葉です。
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「私は自分の昔の作品について、あれこれ、考えた事なんてなかったわ。ただ、陶器製造に携わっている人達に仕事を与え続けようとしていただけなのよ。」 Susie Cooper
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そして、当時スージーの下で働いていた元ペインターのおばあちゃまが言いました。 「スージーは我々のスージーでした」って。


皆さまは思いませんか?まるで、昭和以前の日本人の言葉のようだって。クィーンオブマザーが毎朝の朝食に愛用したスージークーパー。ここ十数年、日本で熱狂的な大人気となったスージークーパー。しかし、それは決して偶然の事ではなかったのです。我々日本人にとっては、やはりそれは必然だったのではないでしょうか?私はスージークーパーと日本人は強い絆で結ばれていると思います。


古いスージークーパーファンはご存知と思いますが、ここで新しいスージーファンの為に一つエピソードを紹介したいと思います。
スージークーパーの亡くなる少し前の1994年頃から、日本では既にスージークーパーフィーバーと呼ばれる現象が起こっていました。それは当時20代の後半(2008年現在40代前半)の世代を中核とした若い日本の人達のスージークーパーに対する熱狂的な人気でした。後にそれは、女学生からおじいちゃん、おばあちゃんにまで広がります。
それ以前のスージークーパーはと云えば、例えば1950年代に、英国皇室御用達デパート ハロッズで売り出された頃と比べても、まだまだアンティークマーケットでは中古品扱いで安価なものでした。そんな理由で日本のアンティークディーラーの間では、スージークーパーって何?っと云う感じの先輩方が多かったのです。そんな中で英国に押しかける日本人バイヤーの中核勢力は雑貨ショップのオーナーの方々でした。


当時、ある知人の英国人デコディーラー(アールデコ期の作品を取り扱う業者)は私に向かって”今日は100人以上の日本人ディーラーがスージーを買いに来たよ”っと鼻高々に豪語したものです。それは、幾らなんでもオーバーだとは思いましたが...。
実際、私を日本人と見るや見知らぬ英国人が突然、”お兄さんスージーあるよ”っと言ってきた事は1度や2度ではありません。当然、スージークーパーの相場は毎週、否毎日のようにどんどん急騰して行きました。その間、多くの英国のアンティークディーラー達は地団駄を踏み、多くの日本人ディーラー達は茫然自失の状態でした。何故でしょうか?


それは、19世紀の日本で我々日本人が包装紙代わりに使っていた浮世絵を突然、英国人がこれは凄い!!っと評価し世界中のコレクターが浮世絵を買い占めて価格が急騰しました。それとちょうど反対の事が英国で起こっていたのです、日本人によって。ところが多くのアンティークディーラー達はその事に気が付きませんでした。否、一部の英国人は気づいていたからこそ、自分達より先にスージーを再評価された事をとても悔やんだのです。


そして遂に、1995年秋、日本でスージークーパーの人気が大爆発します。1996年初めてクリスティーズのオークションに登場したリボンのパトリシアローズのティーフォーツゥ(2人用のティーセット、ティーポットは破損しているにもかかわらず)は£2,000.00を突き抜けます。スージークーパーがアンティークになった瞬間でした。我々、日本人が正にスージーをアンティークに押し上げたのです。


それより溯ることほんの僅か、1995年7月28日英国マン島にてスージーはこの世に別れを告げていました。後、ほんの少し、もうチョットだけスージーがこの世に居てくれたならば・・・。あの1987年、ビクトリア&アルバートミュージアムのスージークーパー展の時のように、“スージー”に熱狂する我々日本人の若い人達を見て、 スージーは何と言う言葉を発してくれたでしょうか?それだけは聞いてみたかった・・・。それだけは見てほしかった・・・。と思ったのは私だけではないと思います。


我々日本人の心に宿るスージークーパー。我々日本人の感性に染み入るスージークーパー。スージークーパーの魅力をあんてぃーく遊民で心ゆくまで堪能して頂ければ幸いです。


以下は、スージークーパーの略歴です。 

   
スージークーパー年表と日英関係史
1901年 4月29日 後の昭和天皇、裕仁親王殿下誕生。
1902年 10月29日 英国スタッフォードシャーに7人兄弟の末っ子として生まれる。
  日英同盟協約調印。
1905年 日露戦争勝戦(ポーツマス条約調印)日英同盟改定(第二回)
1911年 日英修好通商航海条約調印(日本関税自主権確立) 日英同盟改定(第三回)
1912年 明治天皇崩御(享年61歳)
1914年 第一次世界大戦勃発。英国が日本参戦を要請する。日本参戦を決定。対独宣戦布告。
1917年 英国、日本海軍の地中海派遣を要請。日本特務艦隊を派遣する。
1918年 地元のバーズレムアートスクールに(夜間コース)入学。
スージークーパー15歳。
  第一次世界対戦終結。戦勝国となる。
1919年 ヴェルサイユ条約締結(国際連盟の設立) 日本、世界で初めて国際社会に人種差別の撤廃を訴える。ところがインドを殖民地としていた英国の猛反発により退けられる。
1922年 食器販売会社A.E.Gray&Co.Ltdに見習いペインター(絵付け師)として入社。
スージークーパー19歳。
  日英同盟失効する。
1923年 同グレイ社にて、食器のデザインを始める(パターンNo.2562〜)
ビクトリア&アルバートミュージアムで英国産業芸術学会の陶器部門に出展。
  関東大震災。
1924年 英国王室展覧会出展。
  アメリカ排日移民法制定。
1925年 パリ万博でスージークーパーデザインのラスターウェアが銀賞に輝く。
スージークーパー22歳。
1926年 大正天皇崩御(享年48歳)
1929年 同グレイ社を退社。
スージークーパー27歳。
  10月24日ニューヨーク株式市場の大暴落(ブラックマンデー)による世界恐慌。
1930年 スージークーパー独立。
Susie Cooper Potteryを設立。
1931年 事業拡大の為、バーズレムに会社を移転する。
ノーズゲイ発表。
  満州事変に突入。
1932年 ウェディングリング発表。
バックスタンプにリーピングディアを使用し始める。
1933年 ヒットラー政権誕生。
1935年 ドレスデンスプレイ発表。後にベストセラーパターンになる。
1937年 エイコーン発表。
  シナ事変勃発。
1938年 パトリシアローズ発表。建築家セシルベーカー氏と結婚。
スージークーパー35歳。
1939年 パネルスプレイ発表。
  第二次世界大戦勃発。英、仏対独宣戦布告。
1940年 英国で女性初のロイヤルデザイナーとなる。
スージークーパー37歳。
1941年 大東亜戦争開戦。日本、米英国等に対して宣戦布告。
1943年 長男ティモシー出産。
スージークーパー40歳。
1945年 第二次世界大戦終戦。大東亜戦争敗戦。
1950年 Susie Cooper china. Ltd.を設立。
ボーンチャイナの生産に着手。
スージークーパー47歳。
1966年 ウェッジウッドの傘下に入る。
1972年 夫セシルベーカー氏死去。
1979年 大英帝国勲位を授かる。
1987年 ビクトリア&アルバートミュージアムにて、スージークーパー展が大々的に開催される。
ロイヤルカレッジオブアートより最高名誉の博士号授与。
1988年 一人息子のティモシーとマン島に移住する。
1989年 1月7日昭和天皇崩御(享年87歳)
1995年 7月28日 マン島にて死去。享年92歳。
彼女の訃報は英国各紙が一面トップで報じる。
 
 
合掌
あんてぃーく遊民 店主
 
 
   
 
  photo:
Susie Cooper by Adrian Woodhouse TRILBY BOOKS
Susie Cooper A PIONEER OF MODERN DESIGN Andrew Casey and Ann Eatwell ANTIQUE COLLECTORS' CLUB